田口ランディさんに学ぶ「自分語り」の効能

作家の田口ランディさんもTwitterをやってらっしゃるというのを知って、昔msnのメルマガやそれをまとめたエッセイ集、小説などを愛読していたことを思い出した。
私は「私的」なものを大事に生きている人間がとても好きだ。仕事に自分の思いを持ち込んじゃうような人がとても好きで、自分もできればそうありたいと思っている。ただそれには、私的なものと公的なもの、理想と現実を止揚する意思と、そのために求められる高い基本能力がなければ成り立たないものなのだろうとも思う。ネット普及は少し追い風になっているとは思うが、「個」として正直に生きるのは、今もってかなり難易度の高い生き方だと思う。
私がランディさんを昔から好きなのも、ランディさんの「自分語り」がとても好きだからだ。エッセイにしても小説にしても、「私」の含有分が多分とても多い。おそらく誰もが持ち、そして色んな社会的立場からそれを普段自重気味にしているはずの「自己顕示欲」に対して、とても正直な仕事をされる。多分普通の文章技術でそれをやるとややもウザイ感じになるかもしれないところを、その筆力でもって上質なエンターテイメントまで昇華させている。こういう属性の作家さんというのは今でもかなり希有なんじゃないだろうか。村上春樹さんなんかもスタンスとしては近い感じがするが、ランディさんの場合もっと露骨に「私的」であるように思う。
ランディさんはよくご自分のことを「普通のオバサン」とおっしゃる。こんなに才能があって有名な方がもう全然「普通のオバサン」なわけがないのだが、相変わらずご本人は「普通のオバサン」的なスタンスで、インターネットの草分け期に始まる「ニフティフォーラム」から、msnのメルマガ、ブログ、mixiの日記、そしてtwitterと、時代によってツールを変遷させつつも今もって変わることなく、ご自分についてのご自分のための文章を、お仕事とは別に無料で公開して語り続けることで、ファンを楽しませ、考えさせ、勇気づけている。これはすごいことだとなぁと思う。

「人生29歳変動説」

ランディさんが昔書かれた文章の中で、最も印象に残っていたものの一つがこの「人生29歳変動説」。今でもWebArchiveに残っていたので嬉しいことにネットでタダで読むことができる。

人生29歳変動説:あなたの転機はいつでしたか? - MSN ジャーナル

 ええと、私は10年間、編集者をやってきて、数多くの文化人、名士、タレントさん、学者さんなどなどに、取材という名目で会ってきた。で、その経験を通して、とても不思議に思うことがあったのだ、それを私は「人生29歳変動説」と呼んでいる。
 いろんな人の話を聞くと、かなりの確率で……というか、びっくりするような確率で、29歳で人生の転機を迎える人が多いのである。29歳には何かある、とつねづね思ってきた。そういえば、ブッダが出家したのだって29歳だった。
 この29歳の転機というのは、その人の天職というものと非常に深く関わっている。29歳で、自分の価値観や、携わっている行為に対して疑問を持ち、そして疑問を解決すべく行動した人はその後、32歳の時に別の転機と遭遇するのだ。
 で、この32歳の時の転機が、自分の天職を決めていく。その後、35歳、38歳と順調に自分の人生の意味を見いだし、42歳前後で迷いが出る。
 この40歳代の迷いというのは、身体の変調という形で表出したり、もしくは女性に恋をしてしまう……というような形で現れたりするのだが、とにかく心と身体が動揺し、それを経験することによって、本当に自分が望んでいる生き方とはどんなものかを再確認し、それが完了すると50歳から「奉仕」というものを仕事の中心に据えて、生き始めるようなのである。

この文章を最初に読んだとき、まだ20代前半だったが、なんとなくずっと心に残っていて、29歳になったときに思い出してネットから見つけて再度読むことができた。そして、29歳前後で仕事の方向性を大きく転換した自分に気づき、当時迷いも大いにあったのだが勇気づけられた。(とても面白い文章なので読んだことのない方はぜひ読んでみて下さい。)

「語る」ことの効能

今回注目したいのは、29歳変動説そのものではなく、その文章の後半の「語る」ことについての文章だ。これが個人的に改めて考えさせられた。

 私はよく、インタビュー原稿をまとめる時に「●●氏は、こう語った」と書く。

 でも、普通の人と話している時に「山田さんがこんなこと語ったんだよ〜」とは言わない。そういう時は「しゃべった」とか「話した」とか言う。

 人生は「語る」である。人生を「しゃべる」とは言わない。語ると話すは別の行為だ。そして、私たちは時々「語りたい」のだ。「語らない」と自分がわからなくなる。自分を見失ってしまう。なぜだかわからないけど、人には「語る」ことが必要なように思う。

 たとえば「私の転機について……」自分の人生がどうで、こうで、ああなって、そして転機があったのよ。そうやって語りたいのだと思う。語らないと自ら意識できないことが、たくさんある。

 人生の目撃者は自分だけだから、自分が常に経験の主体だ。だけど、時おり主体を離れて、自分の人生を客体として語ってみることが、人が生きるためには必要なのだという気がしてならない。

 語るは騙る、に通じる場合もある。時には、語ることに嘘が混じる。それが大切なんだなあって思う。語る……は物語に通じるのだ。自分の人生を物語ること、自分の神話を語ること。それがいま、とても必要とされているような気がする。

(中略)

 私は今この瞬間だって「29歳人生変動説」なんて書いたら、理系の読者から「根拠のないインチキを書くな」という怒りのメールが来るのではないか、とおびえている一般人だ。私が語ると騙りととられる。一般人が自分の人生を物語ると「騙り」ととられるから、恐ろしくて口をつぐんでしまうんだ。

 だけども、やっぱり語りたいし、聞いてもらいたい。そして、あまりにも長いこと語らないと、たったひとりで、この淡々とした人生を生きていく力、生活者のバカ力が、萎えてきてしまうのだ。

「自分語り」。
個人的には、迷いや悩みの多いとき、人生よくわからなくなってきたときに、自分語りをしたくなる。自分語りをすることで、色々な思いが整理され、「私やっぱり間違ってないよね?…よね?」という少しの生きる自信になり、また次の一歩を歩き出せるという面があるように思う。色々思うところがあって消してしまったのだが、私は何回かBlogでものすごい長文の自分語りをしたことがある。身近な人は何も言わず読んでくれた。そしてその何も言わず読んでくれたこと、自分の意志を知ってくれている、ということもとても励みになった。(後で読み返すと恥ずかしいことこの上ないのですが…。)

「しゃべり」と「語り」は違う。

 自分について語るとき、人は自分に優しくなれる。自分についてしゃべる時は、けっこう自分に冷たい。ダメな奴だと謙遜し、人生ロクなことなかったよなあ……としゃべる人が多い。それはしゃべってしまうからだ。人生はしゃべっちゃいけない。語らないと。

 人生について語る時、なぜか人は自分を愛するように語る。そして自分を愛するように語れた時、自分が自分を好きだったことに気がつく。語ることは、自分が自分を憎んでいないこと、愛してることを教えてくれるからいいんだ。

 だから、語るほど元気になる。人生は語らないとあかん。必死で語っていると、自分のために泣けてくる。ああ、あたしって、こんなにがんばって今まで来たんだな、って。そういう自浄の力を「語り」はもっている。

 とほほのとほほだと思ったら、語りましょう、しゃべらず。多くの人は、しゃべりすぎて自分を傷つけている。語ることは自分を傷つけないのに。だってそれは祈りだから。祈りだから、つぶやくだけだっていいのだ。書くだけだっていいのだ。誰かに語ることを前提に、頭のなかで考えてみるだけでも、効果はある。

少なくとも自分の親しい人や、一緒に仕事をしている仲間などの「自分語り」は結構聞きたいし読みたいなと私は思っている。知らない人の「自分語り」も結構面白い。文章でなくても自分について「語っている」のを聞くのが好きだ。その中で得たものや、自分の人生の糧になっているものもとても多い。何より、自分を「語ってる」のを聞いたり読んだりすると、よりその人のことを人間的に好きになってしまうことが多い。
おしゃべりではない「語りモード」というのがあるように思う。たまに、この人「語りモード」入ったな、と感じた時には、「語りモード」を邪魔しないように、できるだけ口を挟まず相手の話を聞くことに注力する。合いの手もインタビューみたいな口調になる。そうすることでイイ「語り」が聞けたりする。
ただ、身近な人の「自分語り」が文章にして見られる機会は意外と少ない。私が「自分語り」文章を平気で公開できてしまうのは、多分恥知らずだからなんだろうと思う。周りの人のうちのほとんどがあまりそういう文章を公開しない。どこかに書いているのかもしれないけどあまり見たことがない。正直、結構残念だ。語ってくれれば読むのに勿体ないなぁと思う。

「自分語り」を公開することのリスクとメリット

でも、それを普通にBlogやmixiに書いてみんな公開しましょうよ、という風には一概に言うこともできない。どちらかというとそういった「自分語り」はblogでもMixiでも疎んじられている傾向にあるように思う。ツールをどう使おうとその人の勝手だとは思うが、確かに読む人を選ぶものかもしれないし、ネット上での広い付き合いも大事にしたかったり、ビジネス的な立場を持っている人にとって、実名や個人を特定可能な状態での「自分語り」は大きなリスクにもなりうる。何より結構こっぱずかしいし、読む人の中には眉をひそめる人やドン引きする人も当然出てくる。そのリスクを十分に知っている人ほど、よほどの理由がない限り、あまり「自分語り」をネット上で公開しない傾向にある。
先日、某IT企業の会長だという一説のあるid:kawangoさんと思われる方が、増田(はてな匿名ダイアリー)で衝撃的な「自分語り」を公開して評判になっていたが、これはかなり勇気のある行為だと思った。少なくとも自分はあの文章がとても好きだし、id:kawangoさんのこともあの文章でよりファンになってしまったのだが、多く寄せられたブコメを見る限り賛否両論見られるようだ。
弟の相談を笑っていたら死にやがったw

弟が死んだとき、親戚は、このことはあまり話さない方がいいと助言してくれた。話すべきことじゃないといわれた。

でも、たんなる感傷にすぎないのかもしれないが、僕のことをしっていてくれたり、僕の仕事を評価してくれているひとには父と弟のことを話したいと思った。そうして、このエントリをいま書いている。

死なんてものは世の中にありふれている。僕にとって特別なふたつの死も他人には関係のないはなしだ。

父と弟の話を書いても、ネットの中に埋もれて、僕のまわりのひとすら見つけられないのはさみしい。そう思って2ヶ月ほど前にブログをはじめた。僕に少しでも関心をもってもらえそうな話なんて、あたりまえだが仕事しかない。そもそも仕事の話以外に自分にはとりえもなければ、価値もない。弟のいうとうりだ。父親の納骨で区切りをつけてこのエントリをあげるつもりだったが、ブログに予定外の反響があったことや、僕自身のためらいもあって、それから1ヶ月以上たってしまった。

結局、いろいろ手垢のついてしまったブログに書くのも違うと思って増田にしました。

僕の仕事に興味があってブログを見に来ていたみなさん、最後にこんな文章を読ませてしまってすみません。でも、これが僕が聞いてもらいたかった話です。

それでも、そのリスクを承知(あれほどの人が知らないわけがない)で公開したことと、自嘲的なタイトルも含め、私はとても支持したい。人間っていうのは時に愚かで、業が深くて、醜くて、ネガティブで、ニコニコ幸せなことだけではないからこそ、なんだか愛おしいものだなぁと思うからだ。「遺書なの?」みたいなコメントも多いけども、これこそが次のステップへ向けて、誰よりも強く生きたいと願う証なんではないかと思えた。
「聞いてもらうこと」ってそれだけで力になるのだと思う。そして、それはid:kawangoさんのような有名人だけの特権ではなく、万人に普通に与えられているものだと思う。(それも言いたくて、id:kawangoさんはわざわざ増田に書いたんじゃないかなぁとさえ、勝手な見解ではあるが思った。)
「私」の部分を公開しさらけ出すことに対して、ネットもリアルも含め、最適化された環境は少ないと思う。特にビジネスにおいて「私」を公開することはかなりリスクとされる場合が多い。それでも、「私」を含んだ主張というのは、時に理論を超えた説得力を持つことがある。相手を選ぶ面はあるが、それを超えて届く相手にとっては、強いメッセージとなって響く。(これは『ビジョナリーカンパニー』に見られる「企業理念」の考え方などにも近そうだなぁと思ったが、それについては後日書いてみようかな。)

ただ一方的に語りたい、聞いてもらいたい。対話はあんまり要らない。というニーズ。

すいません、話がそれました…ランディさんの話に戻ります。

私は、語り合う……というのがあまり好きじゃない。語りとは一方的なものだ。会話とは違う。

「自分語り」をする場合、一対一もしくは、一対多の対話になってはいけないのかもしれない。
Web2.0という言葉が流行して以来、Webサービスは「双方向性」を重視した方向で発展してきた。それはネットの持つ一つの良い側面であると思うし何ら非難するつもりもないのだが、一方で「語る」事に対する適した現場はだんだん失われてきたように感じる。コミュニケーションを促進する「対話」の環境はかなり充実してきたが、一方でフツーの一般人達が安心して心おきなく「語れる」場所は、いわゆる「双方向性」をある程度制限された環境下においてのみ成り立つのかもしれないと思うのだ。
当たり障りのないみんなを楽しませる文章や小ネタ、もしくは衝撃度の強いネタ、誰かが見て有益なネタ、ツッコミ待ちの文章、もしくはツッコミどころなく用意周到に理論武装された正論…不特定多数の人が見た時の反応ありきのコンテンツは多く散見されるし、人気を博しているが、一方で一般の人達が赤裸々に主観たっぷりに「語る」のがだんだんちょっと怖い場所になりつつある気もする。見知らぬ人に「ソースは?」と問われて理論武装に耐えうる一般人がどれほどいるだろうか?また不特定多数のDisをスルーできる一般人がどれほどいるだろうか?そういう「双方向」の覚悟を持った人しか結果的に表現することを許されなくなり、多くの人は怖くて口をつぐんでしまうような状況は、もしかしたらWebを「野放し」にした場合の宿命なのかもしれないが、ある意味少し貧しいものになってしまうんじゃないかという気がする。
「公開はしたい、誰かに見て欲しい、でもそれについて特に対話するつもりはあんまりないんです、ごめんなさい…」みたいな、微妙なニーズがあるように思う。現在ネットにあるサービスも使い方によっては、それは十分に実現可能だと思う反面、多くのサービスはそのことをあまり推奨して作られてはいない雰囲気。一部のそれに対して「強い意志を持っている人」にしか、結果的に許されていないことのように感じる。普通のひとは普通に自分の評判を気にした言動をするし、Disられたら傷つくしマジに受け止めてしまう。そういうものから守られた場所で、もっと気軽にできてもいいんじゃないか、という気がする。

消費対象とされない「語り」の場が必要かも。

 たとえそれが騙りであっても、嘘であっても、のほほんと受け止めてしまえるだけの度量が家庭にあったら、多くの人は、自分の嘘を越えていける。「あんときは嘘ついた」と、すらっと言える自分の、なんという気持ちよさと思う。

 話す場はあっても、語る場は少ない。今「語り」は一般人に門戸が開かれていない。だから自費出版がもてはやされるし、素人がテレビに露出する。でも「語り」は消費対象にされてしまうと、本来の「カタルシス」を失う。「語り」は経済になってはいけない。「語り」は「祈り」のような行為なのだ。

基本的には、私はネットにマーケティングがもっとガッツリ入ってくればいいのに、というスタンスを支持しています。あまり「嫌儲」みたいな考え方が好きではないし、本当に役立つものや社会を変える力を持つものは、どんな方法論であれ「経済」にいずれ結びつくと思うからです。そして、ネットは多分根底から世の中を価値観や社会制度ごといつかガラリと変えてしまうんだろうという幻想をわりと信じているので、そのためにも、世の中の様々なニーズをネットという新しいインフラをつかって解決することでお金を稼ぎ経済を流通させるということに、とても価値と魅力を感じています。
しかしそれとは別に、多分消費対象になってはいけない部分がどこかにあるのだろう、というのも感じています。単純に経済的な面だけではなく、誰かに対してウケを狙うことやコミュニケーション範囲を広げようと意識すること、これらも広義のマーケティングに入るのかもしれない。そういうマーケティングから離れ、ただ自分の満足のために存在する「聖域」みたいなのが、人間のリアルの生活をエンパワーするためにも、もしかしたらどこかに必要なのかもしれない。
それはBlogやSNSとはまた別個に、「自分語り」を集約したWebサービスとして存在しても面白いのかもしれないなぁと思い、そのサービスの条件について色々考えてみようと思ったのですが、前提が長くなりすぎて疲れちゃいました…。
今日はここまで…。

※『人生29歳変動説』は『馬鹿な男ほど愛おしい』という単行本に載ってます。


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